在野の歴史家ジャン・モリス(en)は、「パックス・ブリタニカは1914年8月に終わりを告げた」と述べている。それに対し、中西輝政は、「パックス・ブリタニカ」が「イギリスによる『平和』」であるなら正しくそうだったが、しかし、それはすでに「イギリス『による』平和」ではなかったと指摘している[1]。すでにヨーロッパの安定は、列強間の微妙な勢力均衡に依存していたからである。
第一次大戦におけるイギリスの戦死者数は、公式集計の完了前にナチス・ドイツによるロンドン空襲があり、資料が焼失してしまったことにより確実な統計はないものの約90万人とされ、これは第二次大戦での39万7,000人の倍以上である。イギリス人にとって第一次大戦は、まず大量戦死という悲しみの記憶であり、この戦争のあと、イギリス帝国はもはや以前の姿に戻ることはなくなった。中西輝政は、「ドイツを包囲するよりほかにない」という強迫観念が、イギリスをして壮大な軍事的対峙の網のなかに自ら囚われる結果を招いたことが「悲しみの大戦」を運命づけたと評している
中西はまた、第一次世界大戦がイギリスの衰退に及ぼした影響として、次の3点を指摘している[1]。
大戦が心神喪失と呼べるほどの幻滅とショックをイギリス国民に与え、特に若い世代の「帝国支配の意思」を大きく減退させたこと。
第一次大戦後によって生まれた新しい世界秩序が、とりわけイギリスにとって適応困難だったこと。具体的には、ロシア革命の影響による労使紛争時代の到来、大戦後の世界に広がる民族自決主義、国際連盟による集団安全保障体制、世界金融への支配力がアメリカに移ったことなど。
本来ならば国力の再生に専念すべき時期に、戦勝による「見せかけの力の膨張」が「帝国の関心」を散り乱し、中東地域の支配に固執してしまったこと。しかし、そこは新しいエネルギー源「石油」を産出し、「インドへの道」にもあたっていた。
ヴェルサイユ・ワシントン体制ヴェルサイユ体制とワシントン体制
戦勝国27か国が参加しドイツなどの敗戦国、ロシアは招かれなかったパリ講和会議の結果成立したヴェルサイユ条約は、敗戦国ドイツに対し、巨額の賠償金支払い、軍備制限、ライン左岸の非武装化、全植民地の喪失とアルザス・ロレーヌ地方のフランス返還などを厳しく義務づけた。ポーランド、フィンランド、バルト3国は独立したが、旧オスマン帝国領のシリアとパレスティナはイギリスおよびフランスの委任統治となり、中国におけるドイツ権益と旧ドイツ領太平洋諸島(ミクロネシア)は日本が継承することとなった。講和会議によって戦勝国の植民地はむしろ拡大し、ウッドロウ・ウィルソンの十四か条の平和原則によって設立の決まった国際連盟には提唱国アメリカは参加しなかった。また、牧野伸顕を中心とする日本代表団は国際連盟規約に人種差別撤廃条項を加えるよう提案したが、認められなかった。このようにして出現したヨーロッパ新秩序をヴェルサイユ体制と呼ぶ。
ヨーロッパに対して優位に立ったアメリカは、アジア太平洋地域の再編をめざして1921年から1922年にかけてワシントン会議をひらき、日・英・仏の列強と太平洋の現状維持、海軍軍備制限、中国の主権尊重を確認した。こうして出現したアジア太平洋新秩序をワシントン体制と呼ぶ。
国際連盟
国際連盟は、世界の恒久平和をめざす史上初の大規模な国際機構だった。発足当時の常任理事国はイギリス、日本、フランス、イタリアの4か国。
ストアッ ソードフ こりー テレホブ ヘンジ ガーべジ ミュータント アシッド ゲリコ チェスト キャリア オープン モンゴ ストリー ビッチ シェイク モック マジャ クリアス テネリ ロム ジュエル ルブリク リムジン エナメルレ ダルフ ファウ ライト デスク ロック カクテル セシウム リカステ キンレン モンキ 花の坊 ワイン ウィキ ミゼット サイコ ステージ 黒船 ゲルマ オメガ ハリウッド ソーラー ケイン セレナイト テーラー フロップ
スイスのジュネーヴに本部をおき、総会・理事会・連盟事務局を中心に運営され、国際労働機関と常設国際司法裁判所が付置された。しかし、ドイツなどの敗戦国とソヴィエト・ロシアは排除され、アメリカ合衆国も共和党が多数を占める上院が国際的負担に反対してヴェルサイユ条約批准を拒否したため参加しなかった。そのため連盟の構成国はヨーロッパ諸国に偏り、また最高決定機関は「理事会」ではなく「総会」であり、議決は多数決ではなく「全会一致」を原則としていた。さらに、軍事的制裁は実施できず経済制裁にとどまることから、侵略国家への制裁手段は不十分であるなどの問題があった。しかし、中小諸国の国際紛争の調停や文化交流などには成果をあげており、史上初の国際平和機関として参加国の総意をもって意見を集約をするという理念は、評価されるべきものと考えられている。