2009年07月01日

神武天皇は即位前は神日本磐余彦尊

神武天皇は即位前は神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)といい、彦波瀲武鸕鶿草葺不合命の四男(または三男)である。生まれながらにして明達にして、強い意志を持っていた。15歳のときに皇太子となり、長じて吾平津姫(あひらつひめ)を妃とし、息子の手研耳命(たぎしみみのみこと)を得た。
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『日本書紀』によると、甲寅の歳、45歳のとき日向国の地高千穂宮にあった磐余彦は、兄弟や皇子を集めて「天孫降臨以来、一百七十九萬二千四百七十餘?(179万2470余年。偽書とされる神道五部書のうち『倭姫命世紀』、『神祇譜伝図記』ではニニギは31万8543年、ホオリは63万7892年、ウガヤフキアエズは83万6042年の治世とされ、計は179万2477年となる。)が経ったが、未だに西辺にあり、全土を王化していない。東に美しい土地があるという、青い山が四周にあり、その地には天から饒速日命が下っているという。そこは六合の中なれば、大業を広げて、天下を治めるにふさわしい土地であろう。よって、この地を都とすべきだ」と宣言した。諸皇子はみなこれに賛成した。

10月5日、磐余彦は兄の五瀬命らと船で東征に出て、速吸之門に来た時、国津神の椎根津彦を道案内とした。筑紫国宇佐に至り、宇佐津彦、宇佐津姫の宮に招かれて、姫を侍臣の天種子命と娶せた。

筑紫国崗之水門を経て、12月に安芸国埃宮に居る。3月に吉備国に入り、高島宮の行宮をつくって3年滞在して船と兵糧を蓄えた。

2009年06月13日

超弦理論や量子重力理論の文脈で示唆されている

超弦理論や量子重力理論の文脈で示唆されているよく知られたアイデアの一つに、宇宙には我々が経験している3次元よりももっと多くの空間次元が、一例として、それが9次元空間だとすると、6次元のカラビ-ヤウ図形のなかに巻き上げられてプランク長ほどの大きさで存在するが、宇宙は3つの空間次元のみでインフレーションを起こした、とするものがある。この理論は string gas cosmology と呼ばれ、ロバート・ブランデンバーガーとカムラン・ヴァッファによって提唱されている。この理論では、衝突する弦のトポロジー的な性質によって我々の宇宙には、余分の次元は、そのままプランク・スケールを保持し、3つの大きな拡がりを持つ次元が存在することになったことを示唆している。しかしこの理論の実用性については多くの疑問が投げかけられている。

その他、ブレイン宇宙論やエキピロティック宇宙論、サイクリック宇宙論、光速変動理論などがインフレーション理論の競合理論または発展理論として考えられている。

観測の分野では現在、宇宙マイクロ波背景放射の観測精度を向上させることでインフレーションについてより多くの情報が得られるようになることが期待されている。特に、背景放射の偏光を高い精度で測定することによって、最も単純なモデルで予言されているインフレーションのエネルギースケールが正しいかどうかが明らかになる。また、原始ゆらぎのスペクトルを測定することで、我々の素朴なインフレーションモデルによって正しい原始ゆらぎが作れるかどうかが分かる。現状では、完全にスケール不変なスペクトルは最も単純なインフレーションモデルとは合わないと一般に考えられている(新しいインフレーションモデルではスペクトルに曲率が存在するため)。現在計画されているプランク衛星やクローバー計画、その他の地上からの宇宙マイクロ波背景放射観測実験でこういった測定が行なわれる予定である。2006年3月に発表された WMAP ミッションの観測データでは、インフレーション理論に対する最初の実験的検証結果が公表されている。WMAP の偏光データは最も単純なインフレーションモデルとよく一致している。
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2006年現在、宇宙のインフレーション時代と現在の宇宙で観測されている加速膨張やダークエネルギーとの間に関係があるかどうか、もしあるならどのような関係なのかについては明らかになっていない。ダークエネルギー、特にクインテセンスによる加速膨張はインフレーションと多くの点で似ているが、現在の宇宙の加速膨張は10-12GeVというずっと低いエネルギーで起こっており、インフレーションのエネルギースケールとは少なくとも27桁も食い違っている。

グースのモデルは、超弦理論や量子重力理論的に解明する流れが続いている。日本では、その後を受けて一般相対性理論の権威である佐々木節などが研究を行い、とりあえず一般相対性理論的にはアインシュタインがわが生涯の誤りとした、宇宙項に由来する可能性があるという数学的見解にて一致するところまで来ている。しかしながら、宇宙観測の結果、数十億年(40億年?60億年前)に始まったとする、第2次インフレーションの原動力さえも、未解決の問題として残っている。今後は、プランク衛星や南極点衛星などによって、更なる精密探査が行われる事によって、この未解決の問題についての一定の見解が得られるのではないか?と期待がもたれている。

2009年06月08日

ユングは、フロイトの抑圧理論を仮定した無意識の

ユングは、フロイトの抑圧理論を仮定した無意識の構造は、より巨大で底知れぬ無意識の全体からすれば、表層の構造であり、更に深い心の部分に、意味と感情が有機的な連関構造を築いている膨大な領域があるとした。このような膨大な有機的統合に、何らかの亀裂・乖離が生じた場合、人間の心は精神分裂病を発病するのであると考えた。フロイトの抑圧理論の扱う層での乖離は「神経症」を齎すのであり、精神分裂病の機制はより深く、魂にとって本質的な層での障害である。

フロイトの抑圧理論は無意識の表層領域での力動で生じ、このような領域をユングは、「個人的無意識」と名づけた。フロイトの理論では、「無意識」は意味のない記憶やイメージや感情が単に、秩序もなく堆積しているだけの場所である。

しかし、このような「無意識」が、膨大なその深層領域で「意味ある構造」を持ち、この構造を通じて、古代の神話や伝承、また当時、レヴィ=ブリュール(1857?1939)などの研究で明らかとなって来ていた、未開人や、様々な文化圏の人々の心理が理解可能となることをユングは知った。精神分裂病患者の荒唐無稽と思われていた妄想でさえ、パターン的に意味理解の道が開けた。ユングは、この膨大な深層領域を「集合的無意識」と名づけた。

カール・グスタフ・ユングの分析心理学は、このようにして成立した。それは無意識全体における動力学理論であった。

ユング心理学の「集合的無意識」と「元型」の概念は、神話学や民俗学、宗教学や文化人類学の研究者に大きな影響を与えた。
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チューリッヒのユング研究所が主催したエラノス会議には、心理学、宗教学、神話学、民俗学等の多様な研究者が出席し、会議において発表された論文は、学際的な研究成果として意味を持った。神話学者カール・ケレーニー、宗教学者ミルチャ・エリアーデ等は、ユング心理学より多くを学んだ。作家ヘルマン・ヘッセも出席したという。

その一方、ユングが生前、錬金術や超常現象の研究なども志向し、「共時性」を、占星術、テレパシー、予知等を説明する原理としても考察したため、超常現象研究者やオカルト的宗教が、その主張を依拠させる科学理論として、ユング心理学を利用するというような事態も生じた。

このような逸脱または過剰解釈は、元々ユング心理学内部に含まれていた文学的・宗教的要素によると考えられる。フロイトの精神分析が、ポパーの規準による「反証可能性」の見地から、科学ではないと批判されたのとは別の意味で、ユング心理学の内在させる非科学性が批判されている。ユングの方はといえば、宗教や芸術に、科学同様固有の価値を認める、というのがそもそものスタンスなのであった。

2009年04月25日

アマルナ美術

アメンヘテプ4世(アクエンアテン)によるアテン信仰の追求は、古い芸術様式の否定と新しい美の基準を生み出した。これには王自身の意向が強く働いていたと思われ、当時の宮廷彫刻家ベクは、宮廷彫刻家とは「見た通りに表現するものである」と王から命ぜられたと言う。

こうして生み出されたアマルナ美術の特徴はリアリズムにある。特に王像の表現における変化は顕著で、それまでの理想的な姿を描いた王像と異なり、アクエンアテンの王像は細長い手足、垂れた胸、突き出た腹を持つ醜悪な外見をしている。やがてこの王の体型が新しい基準となり、他の人物像もこれによくにた体型で表現されるようになった。

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神像表現も変化した。アテン神は従来一般的であった人型の神、或いは獣面人身の表現をされず、太陽を示す円盤から多数の手が差し伸べられるという新しい図像で表現された。これは全ての人に手を差し伸べると言うアテン神の性質を表すために生み出された表現である。

こうしたアマルナ美術は、類型化、理想化の傾向が強かったエジプト美術に新しい息吹を吹き込み、その後の美術に少なからぬ影響を残した。

2009年04月07日

コミックソング

コミックソング(comic song)とは、聞き手を笑わせることを目的につくられた歌を中心とする音楽である。楽器だけの場合には冗談音楽と呼ばれる。

ジャンルは民謡、演歌、歌謡曲、フォークソング、ロック、テクノ、ラテン、ラップなどありとあらゆるジャンルに及ぶ。内容は演奏方法や歌唱方で笑わせるもの、ものまね、ギャグ、ナンセンス、風刺、駄洒落、エロ、パロディと多岐にわたる。流行に便乗した安易なものから、音楽的に優れたもの、斬新なものまでいろいろである。テレビやラジオのお笑い番組から生まれた歌、アニメの主題歌、コマーシャルソングなど成り立ちも様々である。

コミックバンドや、コミックソンガー、漫才師、落語家などコメディアンが歌うことが多いが、普段はシリアスな曲を書いているミュージシャンがコミックソングを書いたり、ポップス歌手、フォークシンガー、アイドル、俳優がコミックソングを歌うことも少なくない。

コミックソングとそれ以外の曲との境界線は明確でない。たとえばコメディアンが歌うシリアスな曲、フォークやロックなどでギャグやパロディーを取り入れた曲、アイドルの歌うコミカルな曲などコミックソングに分類される場合もあればされないこともある。

日本におけるコミックソングの歴史 [編集]
俗謡は地方で市井の人たちに歌われていた歌である。民謡がその土地に密着し同じ歌詞で伝えられるのにたいし、俗謡は歌詞を変え地域を越え流行する。 俗謡にはもともと風刺や、猥雑なコミカルなものも多かった。民謡であっても、本歌は変えないまでも、歌詞その物はどんどん新しいものが作られる例も多い。

明治時代には軍隊、工場の労働者や学生の寮など地方からひとが集まる場所で唄われ替え歌が作られるようになりやがて全国的に広まる。『デカンショ節』や『炭坑節』、21世紀になってもカバーされる『ズンドコ節』、八代亜紀の『舟唄』で引用された『ダンチョネ節』は俗謡を起源とする歌である。

明治時代に流行したものに壮士演歌(そうしえんか)がある。壮士節ともいう。壮士演歌は戦後の演歌とは全く違い政治や世相を鋭く風刺した歌である。もとは自由民権運動を啓蒙するというまじめなものであったが、面白おかしく歌う者が出て流行する。中でも有名なのは川上音二郎の『オッペケペー節』である。他に『ひとつとせ節』『やれ節』などがある。明治の中頃から大正になると地方から都市へ出てきた学生がアルバイトで演歌を歌うことが多くなり書生節と呼ばれた。街頭で演歌を歌う姿は昭和初期までは見られたがレコード盤が普及するにつれ姿を消す。

約束の橋 チーム 赤ずきん リコニー エジンバラ さくもん コモドド モスリン べにえび エンジン オーリ センデ ジーピー シーアイ マンサク ジュエリー トニック チューナー マンデート シャン だいろ 一千一秒 大人の生活 スキーム エイハラ スラロー ロータリー ティズム シンボル オヤマ ファシリ センタ テラコッタ センシ ツール モチーフ ギョリュ モジュ 中仙道 ひわき ジャッカル ケミストリー ローズウッド トークン 一字千金 地上の星 キャップ リーフ マナスル オーソラ


2009年03月23日

樺太鉄道局

樺太鉄道局(からふとてつどうきょく)は、1943年4月1日に樺太の内地編入に伴い、樺太庁から鉄道部門(樺太庁鉄道)が鉄道省(国鉄)に移管されて発足した組織である。豊原市(現在のユジノサハリンスク)に本部を置いていた。

1943年(昭和18年)4月1日、 樺太庁鉄道が樺太庁から鉄道省に移管されて発足する。
1943年(昭和18年)、樺太東線、上敷香駅?気屯駅間(51.7km)が開通。
1944年(昭和19年)10月15日、気屯駅?古屯駅間(10.6km)が開通。
1945年(昭和20年)7月15日、豊真線の豊原駅?奥鈴谷駅間を廃止し、小沼駅?奥鈴谷駅間開通。
1945年(昭和20年)8月9日、ソ連が日ソ中立条約を破棄して南樺太に侵攻し、内地への疎開輸送を開始する。
1945年(昭和20年)8月23日、稚泊連絡船宗谷丸、大泊港から最後の出港をする。
1945年(昭和20年)8月24日、豊原市がソ連軍に占領され、大泊港も封鎖され、疎開輸送は終了する。
1945年(昭和20年)8月28日、樺太鉄道局長、札幌鉄道局長に連絡船の運航見合わせを要請。
1946年(昭和21年)4月1日、ソ連国鉄に編入されて組織としては消滅する。

終戦時の営業状況 [編集]
鉄道線
樺太東線 大泊港駅?古屯駅間、落合駅?栄浜駅間、栄浜駅?栄浜海岸駅間 合計426.5km
樺太西線 本斗駅?久春内駅間、真岡駅?浜真岡駅間、本斗駅?浜本斗駅間 合計173.2km
豊真線 小沼駅?手井駅間 76.2km
川上線 小沼駅?川上炭山駅間 21.9km
自動車線
本留線 本斗?留多加駅前 71.5km
内恵線 内路?恵須取 107.3km
イルカ カッション イナリー ヒンズー ケミカル ヤブラン おりあお パララ アリーナ テリア キンバ マキャベ フードル ハイファイ マイル けんち バルジ ビリティ ビスケ ボール オセロッ ロス ストップ マリン ローエン ランタナ ギブアウ キドニー コーヒー ヒヤシ ファクタ ジュレハ ショベルカ ライフ リック ドレス シーエム ガヤツリ レーン ケション ナラタ プレイ デパオク グロテ ハジャイ トリック シロシ ドット リナッ フィア

戦後 [編集]
終戦時の鉄道局長は1945年8月28日の札幌鉄道局への電話連絡が原因でソ連軍に逮捕され、抑留中に死亡している。
蒸気機関車 [編集]
樺太庁鉄道1形(1) → 鉄道省3005形(3005)
樺太庁鉄道230形(269,270)[1]
樺太庁鉄道450形(453) → 鉄道省450形(453)[2]
樺太庁鉄道860形(860)[3]
樺太庁鉄道1530形(1530,1531)[4] → 鉄道省1530形
樺太庁鉄道3000形(3000 - 3002)[5]
樺太庁鉄道2形(2?8) → 3100形(3100?3106) → 鉄道省2940形(2940?2946)
樺太庁鉄道4000形(4000,4001)[6]
樺太庁鉄道C12形(C121?C124) → 鉄道省C12形(C12265,C11271?C11273[7])
樺太庁鉄道5700形(5756,5757[8]) → 鉄道省5700形(5756,5757)
樺太庁鉄道7200形(7216,7219[9]) → 鉄道省7200形。
樺太庁鉄道7750形(7750?7759) → 鉄道省7750形(7751?7753,7755?7757,7759[10])
樺太庁鉄道20形(20?24) → 8400形(8400?8404) → 8550形(8550?8554) → 鉄道省8550形(8611?8615)
樺太庁鉄道8620形(8620?8634[11]) → 鉄道省8620形(88652?88666)
樺太庁鉄道8650形(8650?8653) → C50形(C501?C504) → 鉄道省C50形(C50155?C50158)
樺太庁鉄道C51形(C511?C5114) → 鉄道省C58形(C58369?C58382[12])
樺太庁鉄道C52形(C521?C524) → 鉄道省C56形(C56161?C56164)
樺太庁鉄道D50形(D501?D505) → 9600形(9600?9604) → 鉄道省9600形(79670?79674)
樺太鉄道(→ 樺太庁鉄道)40形(40?46) → 鉄道省5625形(5625?5627[13])
樺太鉄道(→ 樺太庁鉄道)60形(60?74) → 鉄道省7720形(7720?7734)
樺太鉄道(→ 樺太庁鉄道)80形(80?88) → 鉄道省9600形(79680?79688)
鉄道職員の中には、1956年の日ソ共同宣言まで、ソ連に抑留されていた者が多数いた。

2009年03月08日

パックス・ブリタニカの終焉

在野の歴史家ジャン・モリス(en)は、「パックス・ブリタニカは1914年8月に終わりを告げた」と述べている。それに対し、中西輝政は、「パックス・ブリタニカ」が「イギリスによる『平和』」であるなら正しくそうだったが、しかし、それはすでに「イギリス『による』平和」ではなかったと指摘している[1]。すでにヨーロッパの安定は、列強間の微妙な勢力均衡に依存していたからである。

第一次大戦におけるイギリスの戦死者数は、公式集計の完了前にナチス・ドイツによるロンドン空襲があり、資料が焼失してしまったことにより確実な統計はないものの約90万人とされ、これは第二次大戦での39万7,000人の倍以上である。イギリス人にとって第一次大戦は、まず大量戦死という悲しみの記憶であり、この戦争のあと、イギリス帝国はもはや以前の姿に戻ることはなくなった。中西輝政は、「ドイツを包囲するよりほかにない」という強迫観念が、イギリスをして壮大な軍事的対峙の網のなかに自ら囚われる結果を招いたことが「悲しみの大戦」を運命づけたと評している
中西はまた、第一次世界大戦がイギリスの衰退に及ぼした影響として、次の3点を指摘している[1]。

大戦が心神喪失と呼べるほどの幻滅とショックをイギリス国民に与え、特に若い世代の「帝国支配の意思」を大きく減退させたこと。
第一次大戦後によって生まれた新しい世界秩序が、とりわけイギリスにとって適応困難だったこと。具体的には、ロシア革命の影響による労使紛争時代の到来、大戦後の世界に広がる民族自決主義、国際連盟による集団安全保障体制、世界金融への支配力がアメリカに移ったことなど。
本来ならば国力の再生に専念すべき時期に、戦勝による「見せかけの力の膨張」が「帝国の関心」を散り乱し、中東地域の支配に固執してしまったこと。しかし、そこは新しいエネルギー源「石油」を産出し、「インドへの道」にもあたっていた。

ヴェルサイユ・ワシントン体制ヴェルサイユ体制とワシントン体制
戦勝国27か国が参加しドイツなどの敗戦国、ロシアは招かれなかったパリ講和会議の結果成立したヴェルサイユ条約は、敗戦国ドイツに対し、巨額の賠償金支払い、軍備制限、ライン左岸の非武装化、全植民地の喪失とアルザス・ロレーヌ地方のフランス返還などを厳しく義務づけた。ポーランド、フィンランド、バルト3国は独立したが、旧オスマン帝国領のシリアとパレスティナはイギリスおよびフランスの委任統治となり、中国におけるドイツ権益と旧ドイツ領太平洋諸島(ミクロネシア)は日本が継承することとなった。講和会議によって戦勝国の植民地はむしろ拡大し、ウッドロウ・ウィルソンの十四か条の平和原則によって設立の決まった国際連盟には提唱国アメリカは参加しなかった。また、牧野伸顕を中心とする日本代表団は国際連盟規約に人種差別撤廃条項を加えるよう提案したが、認められなかった。このようにして出現したヨーロッパ新秩序をヴェルサイユ体制と呼ぶ。

ヨーロッパに対して優位に立ったアメリカは、アジア太平洋地域の再編をめざして1921年から1922年にかけてワシントン会議をひらき、日・英・仏の列強と太平洋の現状維持、海軍軍備制限、中国の主権尊重を確認した。こうして出現したアジア太平洋新秩序をワシントン体制と呼ぶ。

国際連盟
国際連盟は、世界の恒久平和をめざす史上初の大規模な国際機構だった。発足当時の常任理事国はイギリス、日本、フランス、イタリアの4か国。
ストアッ ソードフ こりー テレホブ ヘンジ ガーべジ ミュータント アシッド ゲリコ チェスト キャリア オープン モンゴ ストリー ビッチ シェイク モック マジャ クリアス テネリ ロム ジュエル ルブリク リムジン エナメルレ ダルフ ファウ ライト デスク ロック カクテル セシウム リカステ キンレン モンキ 花の坊 ワイン ウィキ ミゼット サイコ ステージ 黒船 ゲルマ オメガ ハリウッド ソーラー ケイン セレナイト テーラー フロップ

スイスのジュネーヴに本部をおき、総会・理事会・連盟事務局を中心に運営され、国際労働機関と常設国際司法裁判所が付置された。しかし、ドイツなどの敗戦国とソヴィエト・ロシアは排除され、アメリカ合衆国も共和党が多数を占める上院が国際的負担に反対してヴェルサイユ条約批准を拒否したため参加しなかった。そのため連盟の構成国はヨーロッパ諸国に偏り、また最高決定機関は「理事会」ではなく「総会」であり、議決は多数決ではなく「全会一致」を原則としていた。さらに、軍事的制裁は実施できず経済制裁にとどまることから、侵略国家への制裁手段は不十分であるなどの問題があった。しかし、中小諸国の国際紛争の調停や文化交流などには成果をあげており、史上初の国際平和機関として参加国の総意をもって意見を集約をするという理念は、評価されるべきものと考えられている。

2009年02月19日

機動戦士Ζガンダム(本編未登場)

エゥーゴ
アビランド ケイソ グズア 月の宿 トラム 太鼓判 バロイ ガリウム ジョーカー スーパー プチブ ダムウェ フット チルドレン シーズン ポインセ キッチン メンチ ナラティブ 河童大王 アービト キャリア カララー ダブルシン ガッツ カフス ビジョン デバイ マスゲ シェード ナル 華麗 プロジェト スタート スタンド ハノー リアリ スヌーピ アオザイ フォトメ ビンバ シネコン スローガン ライン センナ ハイマツ アコード フォカマイ スコア ケブキ

エプシィガンダム(コードネーム:εガンダム、本編未登場)
ティターンズ

RX-106 プロトタイプハイザック(設定のみ、プラモデル解説書)
ジオン公国軍

MS-06M-1 ザク・マリンタイプ前期型(設定のみ、プラモデル解説書)
MS-06M-2 (MSM-01) ザク・マリンタイプ後期型
アクシズ(ネオ・ジオン)

AMX-001 ガザA
AMX-002 ガザB

機動戦士Ζガンダム(電撃コミックス版)
ここには、近藤和久による『機動戦士Ζガンダム』(電撃コミックス)の新登場兵器を挙げる。

アクシズ(ネオ・ジオン)

MS-110 チャイカ(CHAIKA)
MAN-07G G-3/ゲー・ドライ(近藤版キュベレイ)
AMS-99 カノネ・ディアズ
地球連邦軍

RMS-156 グリフォン(GRIFFIN)
A/FMSZ-007(-?) 量産型Ζガンダム(II)

Ζガンダム STANDBY OK
ここには、近藤和久による画集『Ζガンダム STANDBY OK』の登場兵器を挙げる。

アクシズ(ネオ・ジオン)

MA-05HG ブラン

サイドストーリー・オブ・ガンダム・ゼータ
ここには、近藤和久による漫画『サイドストーリー・オブ・ガンダム・ゼータ』(電撃コミックス)の登場兵器を挙げる。

地球連邦軍、ティターンズ

RX-100 ヒャクシキ・カイ
RX-178R ガンダムMK-III
RX-005 シュッツルム・イェーガー
MS-20 ハイザック
MS-22 マラサイ
TMA-10X アッシマー
TMS-007X Ζグスタフ
RMS-156 グリフォン
アクシズ(ネオ・ジオン)

MA-08R ビグ・ザム
MAN-07G G-3/ゲー・ドライ(近藤版キュベレイ)
MS-109A ゴブリン

機動戦士Ζガンダム フォウ・ストーリー そして、戦士に…
ここには、小説『機動戦士Ζガンダム フォウ・ストーリー そして、戦士に…』の登場兵器を挙げる。

ティターンズ

MRX-008 サイコガンダム試作8号機

Ζ-MSV(機動戦士Ζガンダム モビルスーツバリエーション)
ここには、メカニックデザイン企画『Ζ-MSV』の登場兵器を挙げる。

エゥーゴ

リック・ディアス系
MSA-099-2 リック・ディアスII(リック・ディアス改)
百式系
MSR-00100 (MSR-100, MSR-100S, MSR-00100S) 百式改
MSR-00100S (MSR-100S) 量産型百式改
ネモ系
MSA-004 (MSK-004) ネモII(設定のみ、模型情報)
MSA-004K (MSK-004K) ネモIII
メタス系
MSA-005K (MSK-005K) ガンキャノン・ディテクター
MSA-005M メタス・マリナー
MSA-005S メタス改
Ζガンダム系
MSZ-006-X1, MSZ-006-X2, MSZ-006-X3 プロトタイプΖガンダム(百式ヘッド、ディアス・ヘッド、ネモ・ヘッド)
MSZ-007 量産型Ζガンダム
MSZ-008 Ζ?(ゼッツー)
ガンダムMk-II系
FA-178 フルアーマーガンダムMk-II
MSF-007 ガンダムMk-III
ディジェ系
SE.DJ-1R ディジェSE-R(機動戦士ガンダム MS大全集)
PMX(ジュピトリス)系
PMX-004 タイタニア

機動戦士Ζガンダム ジェリド出撃命令
ここには、旺文社ゲームブック『機動戦士Ζガンダム ジェリド出撃命令』の登場兵器を挙げる。

ティターンズ

RMV-3 ガンダムMk-III
RMV-5 (RMV-05) ガンタンク・ホバー
ORX-003 ドミンゴ(可変モビルアーマー)
旧ジオン公国軍残党

MS-09F2 ブリザード・ドム
MAX-07 (MAX-11) ドゥラ

モデルグラフィックス/ガンダムウォーズ
ここには、雑誌『MGオリジナルMS Model Graphics エプシィ・ガンダム』(大日本絵画社)の登場兵器を挙げる。

エゥーゴ

RMS-009RS シュツルム・ディアス
エプシィガンダム(コードネーム:εガンダム)
MSN-00100 百式改
百壱式Ζガンダム
MSA-003 ネモ・ハイマニューバータイプ
MSA-005M メタス・マリナー
MSZ-007 ΖレイピアI(コードネーム:ηガンダム)
MSZZ-000 ZZII
ティターンズ

RMS-108 マラサイ改
RX-139 ハンブラビ Mk-Ib "バンパイア"
RX-166 ガンダムMk-III イグレイ
RX-272 ガンダムMk-III
RX-272-1 ガンダムMk-III "フーリア"
RX-272-2 ガンダムMk-III "ハーピュレイ"
RX-272-3 ガンダムMk-III "デュライ"
地球連邦軍

RX-77-3B ガンキャノン・ベアキャリアII
RMS-106 ハイザック・サウスポー
RX-166 ガンダムMk-III "イグレイ"
MS-06E ザクII・バズノーズ
地球連邦軍/エゥーゴ/カラバ

MSZ-006 Ζプラスシリーズ
MSZ-006A1 (MSK-006) ΖプラスA1型(大気圏内専用)
MSZ-006A1 (MSK-006) ΖプラスA1型(アムロ専用機)
MSZ-006A1B ΖプラスA1B型(対地攻撃型ガトリング装備)
MSZ-006A2 ΖプラスA2型(ハイメガキャノン搭載)
MSZ-006BN ΖプラスBN型(対地・対艦型 STOL)
MSZ-006B ΖプラスB型(複座型)
MSZ-006C1 ΖプラスC1型
MSZ-006C1[Bst] ハミングバード(ブースターユニット装着型)
MSZ-006C4 ΖプラスC4型(フライングアーマー装備)
MSZ-006D ΖプラスD型(大気圏内高機動型)
MSZ-006E ΖプラスE型(偵察機仕様)
MSZ-006R (RGZ-006) ΖプラスR型(バックウェポンシステム搭載)
MSA-0012 (MSA-111) λガンダム(コードネーム:λガンダム、設定のみ)
MSA-014 (RX-186, MSK-009) Σガンダム(コードネーム:κガンダム、設定のみ)
RX-90 (MSA-1111) μガンダム(コードネーム:μガンダム、設定のみ)

ガンダム・センチネル
ここには、雑誌企画『ガンダム・センチネル』の登場兵器を挙げる。

地球連邦軍(α任務部隊)

MSZ-006C1 ΖプラスC1型
MSA-007 ネロ
MSA-007E EWACネロ
MSA-007T ネロ・トレーナータイプ
MSA-007 ビームカノン兼用バインダー装備型ネロ(ガンダムセンチネルRPG)
FA-010A FAZZ(ファッツ)
MSA-0011 (MSZ-011) Sガンダム(コードネーム:ιガンダム)
MSA-0011[Ext] Ex-Sガンダム
MSA-0011[Bst] Sガンダム(ブースターユニット装着型)
MSA-0011[Bst] PLAN 303E Sガンダム ディープ・ストライカー(本編未登場)
RGM-86R (RGM-86N) ヌーベルGMIII
ニューディサイズ

ORX-013 ガンダムMk-V
RMS-141 ゼク・アイン
RMS-142 ゼク・ツヴァイ
RMS-143 ゼク・ドライ(設定のみ)
RMS-154 バーザム改(リファインバーザム)
アクシズ(ネオ・ジオン)

AMX-007 ガザE
AMX-100 ゾディ・アック(モビルアーマー)

タイラント・ソード
ここには、雑誌企画『タイラント・ソード』の登場兵器を挙げる。

アナハイム・エレクトロニクス社・第13開発室 "ネオフィリア"

RS.NF-81-STI-SES ネモ・ソード改
SX.NFR-01SE タイラント・ソード
SX.NFR-01SE タイラント・ソード改 "アグレス"
SX.NFR-02SEV スレイブ・ソード
ディジェ・ソード(設定のみ)
エゥーゴ

エプシィガンダム(設定のみ)
Ζガンダム(設定のみ)
メタス(設定のみ)
リックディアス(設定のみ)
地球連邦軍/ティターンズ

RS-81 ネモ
RS-81-STI ネモ・スタンダード・インプルーブメント
RS-82B ジムII
RS-82B-R ジムII改
RX-86 サム
ガンダムMk-II(設定のみ)
ギャプラン(設定のみ)
木星師団(ジュピトリス)

ABFS-RR01S メッサーラ・ディノファウスト・ジュピター
ABFS-RR01M メッサーラ・ディノファウスト・アルファ
パラス・アテナ(設定のみ)
アクシズ(ネオ・ジオン)

MS-04 マラサイ(設定のみ)
ガザ(設定のみ)
キュベレイ(設定のみ)
ゲルググ(設定のみ)
ザクIII(ザクII改、設定のみ)
ドム(設定のみ)

機動戦士ガンダム C.D.A. 若き彗星の肖像
ここには、漫画『機動戦士ガンダム C.D.A. 若き彗星の肖像』の登場兵器を挙げる。

アクシズ(ネオ・ジオン)

MS-09R4 (MS-09RN) シュネー・ヴァイス
AMA-00GR ゼロ・ジ・アール(モビルアーマー)
MSN-02 パーフェクト・ジオング
ガザタイプ試作型

機動戦士ガンダム エコール・デュ・シエル
ここには、漫画『機動戦士ガンダム エコール・デュ・シエル』の登場兵器を挙げる。

地球連邦軍

TGM-79C ジム・カナール
TGM-79C ジム・カナール・宇宙仕様
ジム・カンヌ
マリー一派

YMS-18 プロトタイプ・ケンプファー
エゥーゴ

MSS-008 ル・シーニュ
MSS-009 ジェモ
ティターンズ

ORX-005CS ギャプランカスタム エリシアスペシャル

ADVANCE OF Ζ ティターンズの旗のもとに
ここには、雑誌企画『ADVANCE OF Ζ ティターンズの旗のもとに』の登場兵器を挙げる。

ティターンズ・テスト・チーム

RGM-79CR ジム改高機動型
RGM-79EW EWACジム(本編未登場)
RGM-79SR ジム・スナイパーIII
RGM-79SR ジム・スナイパーIII[中距離支援ユニット]
RX-121 ガンダムTR-1[ヘイズル]
RX-121 ガンダムTR-1[ヘイズル](フルアーマー・タイプ)
RX-121 ガンダムTR-1[ヘイズル](最終形態)
RX-121-1 ガンダムTR-1[ヘイズル改]
RX-121-1 ガンダムTR-1[ヘイズル改・サブアーム装備]
RX-121-1 ガンダムTR-1[ヘイズルテスト装備機](本編未登場)
RX-121-1 ガンダムTR-1[ヘイズル改・アドバンスユニット装備](本編未登場)
RX-121-1 ガンダムTR-1[ヘイズル改・ガルバルディβ共用ブースター・ポッド]
RX-121-1 ガンダムTR-1[ヘイズル改・イカロス・ユニット]
RX-121-1+FF-X29A ガンダムTR-1[ヘイズル・ラー]
FF-X29A Gパーツ[フルドド]
RGM-79Q ジム・クゥエル[ヘイズル予備機]
RX-121-2 ガンダムTR-1[ヘイズル2号機]
RX-121-2A ガンダムTR-1[アドバンスト・ヘイズル]
RX-121-2 ガンダムTR-1[ヘイズル・アウスラ](緊急脱出ポッド[プリムローズ]装備状態)
YRMS-106 ハイザック先行量産型
YRMS106+BL-85X バイザックTR-2[ビグウィグ]
RMS-106C ハイザック・キャノン
NRX-044(R) プロトタイプアッシマーTR-3[キハール](可変モビルアーマー)
NRX-044(R) プロトタイプアッシマーTR-3[キハール](重力下仕様)
RX-107 TR-4 [ロゼット]
RX-107 TR-4 [ダンディライアン]
RX-107 TR-4 [ロゼット](強化陸戦形態)
ORX-005 ギャプランTR-5[ファイバー](可変モビルアーマー 大気圏離脱・再突入ユニット装備状態)
ORX-005 ギャプランTR-5[フライルー](可変モビルアーマー)
ORX-005 ギャプランTR-5[アドバンスド・フライルー](可変モビルアーマー エリア・ドミナンス(領域支配)機仕様)
RX-126 ガンダムTR-6[ウーンドウォート]
RMS-117 高機動型ガルバルティβ
旧ジオン公国軍残党

MS-06F ザク[シュトゥッツァー]
MS-09R リック・ドム(ジオン残党仕様)
MS-09R リック・ドム[シュトゥッツァー]
MS-14B ゲルググ(ジオン残党仕様)
MS-14 ゲルググ[シュトゥッツァー]
エゥーゴ(旧ジオン公国軍残党)

MSA-099 リック・ディアス
MSA-099 リック・ディアス[シュトゥッツァー]

機動戦士ゼータガンダム1/2
ここには、漫画『機動戦士ゼータガンダム1/2』の登場兵器を挙げる。

ティターンズ

RX-178 ガンダムMk-II(テスト機)
ハーフガンダム
アモン・ドッグ
エゥーゴ/カラバ

ハーフZガンダム

ガンダム新体験 グリーンダイバーズ
ここには、劇場アニメーション作品『ガンダム新体験 グリーンダイバーズ』の登場兵器を挙げる。

エゥーゴ/カラバ

MSZ-006-3 Ζガンダム3号機

機動戦士ガンダムΖΖ
ここには、テレビアニメ『機動戦士ガンダムΖΖ』の登場兵器を挙げる。

エゥーゴ

MSN-00100 百式(コードネーム:δガンダム)
MSA-005 メタス
MSZ-006 Ζガンダム(コードネーム:ζガンダム)
MSZ-010 ΖΖガンダム(コードネーム:θガンダム)
RX-178 ガンダムMk-II
AMX-004-2 (AMX-005) キュベレイMk-II
カラバ

RGM-86R ジムIII
ネオ・ジオン

AMX-004 キュベレイ
AMX-004-2 (AMX-005), AMX-004-3 キュベレイMk-II
AMX-004G (AMX-017) 量産型キュベレイ
AMX-006 ガザD
AMX-008 ガ・ゾウム
AMX-009 ドライセン
AMX-011 ザクIII
AMX-011S ザクIII改
AMX-014 ドーベン・ウルフ
AMX-015 ゲーマルク
AMX-101 ガルスJ
AMX-101 永野版ガルスJ(漫画版のみ)
AMX-102 ズサ
AMX-103 ハンマ・ハンマ
AMX-104 R・ジャジャ
AMX-107 バウ
AMX-109 カプール
AMX-117R, AMX-117L ガズアル、ガズエル
NZ-000 クィン・マンサ
RMS-099B シュツルム・ディアス
RMS-119 アイザック
RMS-192M ザク・マリナー
MS-06F ザクII
MS-09G ドワッジ
MS-14J リゲルグ
AMA-01X ジャムル・フィン(可変モビルアーマー)
AMA-01X+AMF-02R ジャムル・フィン&メガブースター
MRX-010 サイコガンダムMk-II(可変モビルアーマー)
旧ジオン公国軍残党・ロンメル部隊

MS-09H ドワッジ改
MS-06D ディザート・ザク
アフリカ解放戦線・青の部隊

MS-09G ドワッジ
MS-14A ゲルググ(青の部隊所属機/エロ・メロエ搭乗機)
MS-06D ディザート・ザク
RMS-119 アイザック
スタンパ・ハロイ所有機

MS-05B ザクI
MS-06V ザクタンク
MSM-03 ゴッグ
MSM-04 アッガイ
MSM-04N アッグガイ
MSM-07 ズゴック
MSM-08 ゾゴック
その他

MS-14A ゲルググ(マサイ・ンガバ搭乗機)
ゲゼ
キャトル(モビルスーツ原型作業機械)

機動戦士ガンダムΖΖ(本編未登場)/ΖΖ-MSV(ΖΖモビルスーツプラン)
ここには、テレビアニメ『機動戦士ガンダムΖΖ』の企画時において存在したが、劇中には登場しなかった兵器を挙げる。

エゥーゴ

M1(本編未登場)
ΖΖガンダム没案(本編未登場)
オメガガンダム
ネオガンダム
ホワイトガンダム(ワイツミラージュ、永野版ΖΖガンダム)
FA-010X スーパーGフォートレス(プラモデル解説書)
MSA-005M メタス・マリナー(本編未登場)
カラバ

MSZ-006A1 (MSK-006) ΖプラスA1型(アムロ専用機、本編未登場)
地球連邦軍

RMS-188M ザクダイバー(本編未登場/ΖΖ-MSV)
ハイパス(本編未登場)
ネオ・ジオン

AMX-008B ガ・ゾウム・ガンナー(プラモデル解説書)
ORX-013 G-V(ガンダムMk-V、本編未登場)
ハイパス(本編未登場)
旧ジオン公国軍残党

MS-06DRC ディザートザク(ロンメル・カスタム、本編未登場/ΖΖ-MSV)
MS-14D ディザートゲルググ(本編未登場/ΖΖ-MSV)

機動戦士ガンダムΖΖ(ゲームブック)
ここには、ゲームブック『機動戦士ガンダムΖΖ (ゲームブック)』の登場兵器を挙げる。

エゥーゴ

MSZ-006 ヴァリアブルガンダム
MSA-005X アニュス・デイ
地球連邦軍

ガンダムMk-IIIグーファー
ティターンズ

グルンドゥール
アクシズ

AMX-003T ガザT
AMX-107bis バウbis
AMX-004 クィンテット・キュベレイ

2009年02月03日

野木宮合戦(のぎみやかっせん)

野木宮合戦(のぎみやかっせん)は、寿永2年2月23日(1183年3月18日)に、下野国・野木宮(栃木県下都賀郡野木町)で源頼朝らと志田義広らが争った合戦。

志田義広は源為義の三男であり、源頼朝の叔父にあたる。治承4年(1180年)に頼朝が平氏打倒の兵を挙げ鎌倉に政権を建てるが、それには加わらず常陸国信太荘(茨城県稲敷市)に居住していた。
ヤーダ ひまわり ヘンチック ロミア シロタ イングラ カフジ はばたけ チンナカ テライト オーツ インチ ウバナ ミクロン スカウト ドットコム ティアラ きょうせい ニードル シュート ヒュー パート フラッ バタフライ メイド ケミカ 大葉春菊 一寸法師 ポリス ギアナ ニガナ リルフール フィック バネー ビー玉流し ダンディ インプット らんぐい ムール ものう ユニーク ムベ ジップア のぎつね ロッテル モヘンジ ハウス タンドー ブロージ リグニン

寿永2年(1183年)2月、源頼朝の御家人らは鎌倉に襲来すると風聞された平家に対抗するため駿河国に在った。

20日、志田義広は鎌倉を攻める兵を挙げ、30000余騎を率い下野国・野木宮へと到る。源頼朝は下河辺行平と小山朝政に対応を託し、小山朝政の弟長沼宗政と従兄弟関政平は、朝政を助けるため鎌倉を発し下野国に向かった。関政平はその途路で志田義広の軍に加わり、源頼朝は翌日から鶴岡八幡宮で東西の戦いの静謐を祈り始める。

合戦
23日、志田義広は鎌倉へ軍を発する。まず、志田義広は足利俊綱・忠綱父子を誘い軍に加えた。足利と小山は同族であるが、下野国で勢力を争っており、足利忠綱は宇治川の戦いでも平家に加わり、以仁王や源頼政を破るなど、以前より源氏に反抗していた。次に志田義広は小山朝政も誘う。朝政は父小山政光が京で勤仕していたため兵が少なく、義広に加わると偽り、野木宮に潜んだ。さらに足利俊綱の異母弟・足利有綱とその子・佐野基綱(忠綱の甥)も秘かに小山朝政の陣営に馳せ参じ、伯父の足利俊綱と従兄弟の足利忠綱らに対して宣戦布告した。

一方、返答を受けた志田義広は喜んで小山朝政の館に赴き、その途中の野木宮に到ると、朝政らは声を挙げ、義広らを狼狽させる。次に朝政の郎従である太田菅五、水代六次、次郎和田、池二郎、蔭澤次郎、小山朝光の郎従である保志泰三郎らが義広を攻めた。この小競り合いで義広は矢を放ち、小山朝政を落馬させる。この馬を戦場に向う途中の登々呂木澤で拾った長沼宗政は、小山朝政が討たれて合戦は敗れたと考え、急ぎ志田義広の陣へ向い、その途路で義広の乳母子である多和利山七太を討つ。その後、志田義広は野木宮西南に陣を引き、小山朝政と長沼宗政は東から攻めるが、東南からの暴風により巻き上げられた焼野の灰が視界を妨げ、戦いは乱れ、地獄谷登々呂木澤では多くの死骸が残った。

下河辺行平と弟の下河辺政義は古河と高野を固め、志田軍の敗走兵を討った。足利有綱・佐野基綱父子、浅沼広綱、木村信綱、太田行朝らは、小手差原や小堤に陣を取り戦った。他には、八田知家、下妻?氏、小野寺道綱、小栗重成、宇都宮信房、鎌田爲成、湊川景澄、源範頼らが朝政に加わった。なお『吾妻鏡』において範頼はここが初見である。

戦後
27日、鶴岡八幡宮での祈祷を終えた源頼朝は、小山朝政らの使者から志田義広の逃亡を聞く。翌日には長沼宗政からの報告を受け、志田義広に加わった武士の所領を全て取り上げ、小山朝政や小山朝光らに恩賞を与える。これにより関東において頼朝に敵対する勢力は無くなった。

足利忠綱は上野国での潜伏を経て、山陰道を通り西海へ赴いた。敗れた志田義広は源義仲の下に加わるが、最期は伊勢国で討たれた。

合戦の年月日
『吾妻鏡』はこの戦いを治承5年閏2月23日に記しているが、元久2年8月7日や建久3年9月12日の記事には、寿永2年2月23日に戦ったと記されている。この矛盾は吾妻鏡の編集に誤りがあり、実際の戦いは寿永2年2月23日に行われたと解されている。

奥州合戦(おうしゅうかっせん)は、文治5年(1189年)7月から9月にかけて、鎌倉政権と奥州藤原氏との間で東北地方にて行われた一連の戦いの総称である。この戦役により、頼朝による武士政権が確立した。また治承4年(1180年)に始まる内乱時代(治承・寿永の乱)の最後にあたる戦争でもある。同時代には「奥州合戦」と呼ばれたが、吾妻鏡文治5年6月6日条などの記述を踏襲して奥州征伐と呼ばれる事もある。

奥州藤原氏は、初代清衡以来三代100年に渡って陸奥・出羽両国に君臨し、三代秀衡の時代には陸奥守、鎮守府将軍の官職を得て、名実ともに奥州を支配する存在となっていた。

平氏討滅後の頼朝にとって、関東武士による独自政権を安定させるためには、奥州藤原氏の政権を早期に吸収合併する必要があった。頼朝は、それまで藤原氏が直接行っていた京都朝廷への貢馬・献金を、鎌倉経由で行うよう要求し、秀衡もそれに従った。

文治3年(1187年)、鎌倉の承認なしに官職を得たため失脚していた源義経が奥州藤原氏の本拠地・平泉に潜伏していることを知った頼朝は、義経の引き渡しを要求。これを拒んだ秀衡は、子息の泰衡・国衡・忠衡の三人へ、義経を擁護して鎌倉と対決するよう遺言し、その年の10月に没した。

義経の死
文治4年(1188年)、頼朝は、義経追討の院宣を二回に渡って獲得し、奥州政権へ圧力をかけるが、泰衡は遺命に従いこれを拒否。業を煮やした頼朝は、今度は泰衡追討の宣旨を朝廷に奏上した。

すると泰衡は、文治5年(1189年)4月30日、平泉衣川館の義経を襲撃し、義経主従を全員殺害した。同時に泰衡と反目する忠衡も討たれた。泰衡は、義経の首を酒浸けにして鎌倉へ送達したが、頼朝は許可なく義経を討伐したことを口実として奥州征伐を奏上した。これに対し後白河法皇は院宣の発給を拒否する。これに対し、大庭景義は奥州藤原氏は源氏の家人であるので、家人の誅罰に勅許は不要なこと、戦陣では現地の将軍の命令が絶対であるのだから朝廷の意向は無視しても良いと主張する。頼朝はこれを容れて全国に動員令を発し、同年7月18日公称28万の大軍を率いて出陣した。鎌倉進発時に率いた主な御家人は、源義信、源義定、源範頼、源広綱、足利義兼、北条時政、北条義時、新田義兼、小山朝政、小山朝光、三浦義澄、和田義盛、安達盛長、土肥実平、岡崎義実、梶原景時、梶原景季、宇都宮朝綱、宇都宮成綱、八田知家、八田知重、葛西清重、江戸重長、佐々木盛綱、佐々木義清らである。

奥州藤原氏の滅亡
7月19日、頼朝は奥州に向かって鎌倉を発向した。一方、この日になってようやく後白河法皇は泰衡追討の院宣を出した[1]。

畠山重忠を先陣とした頼朝率いる大手軍は鎌倉街道中路から下野国を経て奥州方面へ[2]、比企能員・宇佐美実政が率いる上野国の武士団を中心とした北陸道軍は越後国から日本海沿いを出羽国方面へ、そして千葉常胤・八田知家が率いる東海道大将軍は常陸国や下総国の武士団とともに岩城岩崎方面へそれぞれ進軍した。

頼朝は行軍の間の7月25日に宇都宮社(古多橋駅)に戦勝を祈願し、また同29日には奥州との境となる白河関明神社に奉幣した。初秋[3]の白河関に立った頼朝は能因法師の詩を思い出し、梶原景季を呼んで詠じさせるに「秋風に草木の露をば払わせて、君が越ゆれば関守も無し」と詠んだ。

奥州側は国衡が2万の兵を率いて、阿津賀志山の全面に二重の堀を設け迎撃体制をとり、泰衡自身は多賀城の国府にて全軍の総覧に当たった。8月7日から同月10日にかけての阿津賀志山の戦いの詳細は次の通りである。8月7日、陸奥国(後の岩代国)伊達郡国見へ至り、藤原国衡と対峙する。国衡は阿津賀志山に城壁を築き、阿武隈川の水を引き入れた堀を設け、二万の兵を率いていた。夜に入り頼朝は明朝の攻撃を命じ、まず予め用意していた鋤鍬で掘を埋めさせる。8日、畠山重忠、小山朝光、加藤景廉、工藤行光らに、阿津賀志山の前に陣する数千騎を攻めさせ破る。9日夜には明朝の阿津賀志山越えを命じ、先陣は国衡が拠る大木戸へと至る。10日、本軍が大木戸を攻め、搦手の山に登った朝光、紀権守、芳賀次郎大夫らの奇襲により国衡らを破り、逃げる国衡を和田義盛が討った。国衡の奥州軍は大敗し、泰衡は平泉方面へ退却した。その後、頼朝軍は北上し同月13日に船迫宿から多賀城に到着し、常陸方面から来た部隊と合流した。この間、比企・宇佐見の両将に率いられた部隊は出羽を制圧していた。

翌日の14日、玉造郡に泰衡在りとの報を受けると小山朝政、朝光らを向かわせ、泰衡の陣を囲むが泰衡は既に逃亡しており、朝政らは陣に残った残党を討つ。頼朝の先陣は続いて多加波々城を囲むが、泰衡はまたも逃亡しており、城に残った敵兵は手を束ねて投降した。20日、頼朝は先陣に「平泉に入るに於いては、僅か一二千騎を率い馳せ向かうべからず。二万騎の軍兵を相調え競い至るべし。すでに敗績の敵なり。侍一人といえども無害の様、用意を致すべし」と命ずる。21日、平泉へ向かうと、泰衡の郎従は栗原に要害を築き防がんとするが、頼朝らはこれも破った。平泉に入るべく津久毛橋に至ると、梶原景高は「陸奥のせいはみかたにつくも橋、わたしてかけん泰衡が首」と歌を詠み、頼朝を喜ばせた。

同月22日には平泉に入ったが、平泉は既に火が放たれて放棄された後だった。同月26日には頼朝に赦免を求める泰衡の書状が届いたが、頼朝はこれを無視して軍を進めた。泰衡は出羽(後の羽後国)方面へ逃亡し、現在で言うところの北海道への渡航も企てたが、9月3日、比内郡贄柵にて郎従の河田次郎に殺害され、その首級は同月6日に頼朝へ届けられた。7日、泰衡の郎従である由利八郎が捕らえられる。その勇敢な態度から頼朝は八郎と会い、「泰衡は奥州に威勢を振るっており、刑を加えるのは難儀に思っていたが、尋常の郎従が無き故に、河田次郎一人に誅された。両国を治め十七万騎を率いながら、二十日程で一族皆滅びた。言うに足らざる事なり」と訊ねた。八郎は「故左馬頭殿は、海道十五箇国を治められたが、平治の乱で一日も支えられず零落し、数万騎の主であったが、長田忠致に誅せられ給った。今と昔で違いは如何か。泰衡は僅か両国の勇士を率い、数十日も頼朝殿を悩ませた。愚かと思い給うべからず」と答えた。頼朝は答えを返さず対面を終えると、畠山重忠に由利八郎を預け、芳情の施しを命じた。同月9日、泰衡追討の院宣が頼朝の下へ届いた。

同月12日、頼朝は厨川に到達して、泰衡の首級を晒し、祖先の源頼義が安倍氏へ下した処分の故事を再現した。同月22日、頼朝は平泉へ戻り、戦後の奥州支配体制を固めるため、葛西清重を奥州総奉行に任命するとともに、奥州全域を鎌倉の直轄地とした。しかしその直後、泰衡の家臣であった大河兼任が主君の仇と称して鎌倉軍に対して挙兵(大河兼任の乱)。が、ほどなく鎮圧されてようやく奥州に平穏が恢復した。これにより、約10年にわたる治承・寿永の内乱が終息し、武家政権の確立につながる準備がほぼ整った。

意義
この合戦で源頼朝は全国的な動員(南九州の薩摩・かつて平氏の基盤であった伊勢や安芸など)、かつて平氏・源義仲・源義経に従っていた者たち[4] の動員をも行っている。しかしその動員対象は「武器に足るの輩」(文治五年二月九日・源頼朝下文)に限定されていた。さらに不参の御家人に対しては所領没収の厳しい処罰を行ったこと、頼朝が挙兵以来となる自らの出馬を行ったことと併せて考えると、頼朝が自身に従う「御家人」の確立という政治的意図を持っており、奥州合戦はそのための契機となったともいえる。

^ ただし、北爪真佐夫はこの翌日に後白河法皇の実姉である上西門院が死去しており、状況的に19日には朝廷・院はその対応に追われて機能していなかったと考えられ、実際の発給日はこの日よりも後日であったが、頼朝の出発に合わせる形で後に日付を改めたとしている(北爪真佐夫『中世初期政治史研究』(吉川弘文館、1998年、ISBN978-4-642-02764-9))。
^ 他に平賀義信、安田義定、和田義盛、三浦義澄、梶原景時ら
^ 文治5年7月29日 (旧暦)を西暦に換算すると1189年9月18日である
^ 例えばかつて北陸で最大勢力を誇った平家方の城長茂、1180年の富士川の戦いの直後に取って帰した頼朝軍に敗れた佐竹秀義、源義経の逃亡を見逃したと鎌倉に召され梶原景時に預けられていた摂津渡辺党の源番(みなもとのつがう)など
^

2009年01月20日

陸上競技(りくじょうきょうぎ、英Athletics)

陸上競技(りくじょうきょうぎ、英Athletics)は、走る、跳ぶ、投げる、歩くなど、ほとんど道具を使わず、基本的な体力などを勝負に、地上での記録を競うスポーツ。

走種目を主体にするトラック競技と、跳躍(走幅跳など)や投擲(ハンマー投など)を主体にするフィールド競技に分かれる。

走種目の大半はトラックを使って行われ、跳躍や投擲などのフィールド種目は、トラックの内側にあるフィールドで行われる。なお、競技場によってはフィールド競技(特に跳躍)の競技場所がトラックの外側に設置されていることがあり、またマラソン等の道路競技は競技場外の公道を走ることになる。
1983年からは世界選手権大会が開催されるようになった。当初は夏季オリンピック前年の4年に1回の開催だったが、1991年の東京大会からはオリンピック前後の2年おきの開催となった。
競泳と違い、フィールド種目に限り、複数の場所で同時進行ができる(最大で同時間に5種目前後が進行している)ことから、ビギナーにとっては逆にどの種目を見たらいいのかを判断しづらく、テレビ局も生中継の際にはカメラワークや画面の切り替えのタイミングが難しい(複数のフィールド種目で有力選手の試技の時間帯が重なった場合などがその具体例である)という難点もある。
逆にある程度観戦歴を持つ人やファンの場合には、あらかじめプログラムで競技日程を確認した上で、時間毎に見たい種目の近くに席を移動する(国内の場合、殆どの大会は自由席なのでスタンド内の移動は可能である)など、各自で観戦日程を自由に組む人も多い。

歴史
陸上競技は紀元前776年の第1回古代オリンピックに遡る歴史のある競技である。この時にはスタジアムの長さ分の走種目、スタディオン走のみが行われた。

古代には、他にもヨーロッパ中でいくつかの競技大会が開かれていた。

パンヘレニック競技会
ピュティア競技会 (紀元前527年開始)デルポイで4年おきに開催された。
ネメア競技会(紀元前516年開始)アルゴリスで2年おきに開催。
イストミア競技会(紀元前523年開始)コリントスのイストミマスで2年おきに開催(この一部がオリンピック競技会へと発展した)。
ローマ競技会 -- ギリシア起源ではなくエトルリアで始まったもので、走競技と投擲競技の比重を低くし、ギリシア起源の戦車レース・レスリングや、エトルリア起源の剣闘を重く見ていた点が特徴。
他にもケルト人やチュートン人、ローマ帝国を倒したゴート人といった民族も陸上競技の大会を開き、人気を集めていたようである。しかし、これらの民族では陸上競技は軍事鍛錬と関連したものであるのが一般的で、それほど大きく組織立ったものとはならなかった。中世には、貴族の子息たちが乗馬、馬上槍、剣術などの鍛錬に加え、ランニング、跳躍、レスリングなどの鍛錬を行っていたようである。競争相手のライバルや友人らとの間で競技会を開催することも公式、非公式を問わず、広く行われていた。

時代の枠を越えて、ヨーロッパ全土で多くの陸上競技スポーツが親しまれていた様子が確認されている。しかし、イギリスでは13世紀から16世紀にかけてスポーツを楽しむことに国家的な制限を課していた。これはアーチェリーの鍛錬に支障が出ないようにするためであった[要出典]。この制約が17世紀になって除かれた後、スポーツが再び盛んになった。陸上競技組織の活動は19世紀になって行われるようになった。これには学校においてスポーツ体育が実施されるようになった影響もある。正規の学校における陸上競技が取り入れられた初出としてサンドハースト王立陸軍士官学校において1812年、1825年に行われたとの説もあるが、これを補強する証拠は今のところない。記録に残っている最古の会合はシュロップシャー州シュルーズベリーで1940年に王立シュルーズベリー校が開催したもので、当時1838年?1841年まで生徒として在籍していたCTロビンソンが60年後に複数の手紙に当時の詳細について書き残している。

陸上競技は、ルネサンス以降に近代スポーツとして発展し、1896年に開催された第1回アテネオリンピックをきっかけとして、世界各国へと普及した。日本には明治初期に、海軍兵学寮のイギリス人教師によって伝えられた。日本が初めてオリンピックに参加したのは、1912年の第5回ストックホルムオリンピック大会であり、中・短距離走の三島弥彦と長距離走の金栗四三が参加した。
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陸上種目の多くはその起源を古代にまで遡るものが多く、古代ギリシアで既にその競技種目としての形式が確立されていた。1896年の第1回近代オリンピック大会でも陸上競技は実施され、常に実施競技としてありつづけるとともに、オリンピックの花形種目としての地位を占めてきた。女性のオリンピックにおける競技参加は1928年まで許可されなかった。

国際競技統括団体IAAFは1912年に創設され、1983年からは、オリンピックとは別の大会として、IAAF世界陸上選手権を開催するようになった。他に世界室内陸上選手権やヨーロッパ陸上選手権なども開催されている。特にオリンピックを始め、主要な陸上競技大会の期間中は高い注目を集めるものの、スポーツ全般から見ると多くの国で一般からの関心の度合いはやや低くなりがちである。ヨーロッパで毎年夏にサーキット大会が開催され、この種の連続する競技大会としては最高峰に位置しており、IAAFゴールデンリーグも行われる。

全米アマチュア競技連盟が米国における統括団体であったが、1970年代にプロフェッショナルスポーツとしての促進が進むと、その管轄を外れた。新たな統括団体として、TAC (The Athletics Congress) と呼ばれる団体が結成され、後に全米陸上競技連盟 (USA Track and Field; USATF; USA T&F) と改名した。さらにより緩やかな組織として、ロードレースの普及促進を図る団体として全米ロードランナークラブ(RRCA)がある。両団体とも、以前は偽アマチュアリズムとされた、レース出場を通じて金銭を得る行為を禁止していない。